三宮神社

『三宮』の地名の発祥地で、天照大神が産んだ五男三女のうち3番目の
神様を祭ったところから名前が付きました。
境内には商売繁盛のご利益で信仰される三宮稲荷、安高稲荷大明神も
祭られており、河原霊社は生田の森で一番乗りの功名を挙げた源氏方の
河原兄弟を祭る史跡。
南を東西に走る旧西国街道は神戸事件の舞台として名高く、社頭には「史蹟
神戸事件発生地」の石碑や顛末を記した立て札が建つ。

  神戸事件

幕末の安政5ヶ国条約で定められた開港地が兵庫から神戸に変更となったのは
外国人とのトラブルを懸念しての事であったが、北側に大名行列の往来する西国
街道が通っていた。
このため、迂回路の整備を行う事を決め、西国往還付替道、いわゆる徳川道の工事に
着手。石屋川から山間を抜け大蔵谷で合流する、延長30kmの大工事。
完成直後に王政復古が宣言され幕府が崩壊したため、結局大名行列に利用されることは
なかった。
明治元年1月11日、新政府の命を受け家老の日置帯刀ひきいる岡山備前藩士の隊列が
西国街道を西に向かっていた。大砲を含む重装備の一行が三宮神社に差しかかった時に
外国人水兵数名が隊列を横切ろうとした。
武士の行列を割る事は大変な非礼とされ、怒った藩士の滝善三郎が手槍で水兵に手傷を負わす。
知らせを聞いた停泊中の軍艦からは外国兵が続々と上陸。互いに砲火を交える騒動の末
事態の拡大を危惧した藩側は撤収。外国軍は停泊中の日本艦船を抑留、神戸を占領下におく
非常事態となった。 
諸外国から非難を受けた明治政府は勅使を神戸に派遣し王政復古を宣言した上で、事態の収拾に
あたるが、諸外国は政府の謝罪と関係者の極刑断罪を要求。
結局事件の発端となった水兵たちの行状には触れないまま、日置帯刀は謹慎、滝善三郎は切腹という
一方的な結末で幕切れとなった。



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