湊川神社

元弘元年(1331年)楠木正成公は後醍醐天皇の勅をうけ、挙兵し
奇策智謀に優れて、遂に鎌倉幕府を崩壊に追い込み、「建武の中興」
に大きな功績を建てた。
まもなく、足利尊氏が背き、延元元年(1336年)5月25日、一度は九州
へ敗走し、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がって来た足利の大軍を
大楠公は、兵庫湊川で迎撃。しかし、衆寡敵せず、弟正季卿と「七生報国」
を誓って亡くなる。
墓所は秀吉の時代には免租地とされ、江戸時代には五輪の石塔も建てられた。
徳川光圀は「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立。朱舜水の名文は楠公の誠忠全功を
尽くして余りなきものとされ、それは、やがて維新回天を促す大きな力となった。
幕末から維新にかけて、尊崇してやまない大楠公の神霊を奉斎したいという
国民運動が盛んになり明治元年(1868年)明治天皇は神社創祀の御沙汰を下す。
明治5年24日、社名を「湊川神社」とし、別格官幣社に列せられ、湊川神社が創建。
「ナンコウさん」と呼ばれ親しまれている。
JR神戸線神戸駅北へすぐ。神戸高速鉄道高速神戸駅からもすぐ。


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