神戸の雑学

   有馬で生まれて、神戸で育った私。
   そして、神戸をこよなく愛しています。
   そんな神戸の、「あれこれ」を少しづつ、紹介して行きます。

                                               

   車止め
   ベンチ支える消火器
   土足制
   鉄人28号の散歩
   中央幅広管理路
   床で踊る金具
   へこたれん坂
   おらが山
   異人館警察
   カメは都市像
   シャークナゲット
   神戸っ子のおしゃれ
   神戸空港のエスカレーター
   港名記した灯台
   感知式信号
   国道174号
   カラオケ
   山側・海側
   ウラオモテ
   道路標識ー1
   50段坂
   食物の擬人化
   三宮に競馬場
   兵庫の大仏
   兵庫運河
   フラワーロード
   三ノ宮と三宮
   神戸とこうべ
   町名
   バウムクーヘン
   ゴーフル
   ウイスキーボンボン
   そばめし
   宮水コーヒー
   クール&ドライ
   神戸空港
   神戸弁
   パンとコーヒー
   北野坂&ヒルトン通
   カタカナの街




















  ポートタワー車止めに

  中央区の花隈駅から国道2号までを南北に結ぶ
  「マリンロード」に神戸市民には御馴染みの鼓型の柱が
  歩道にそびえる
  そうです、ポートタワーそのものです
  車が歩道へ進入するのを防ぐ車止めとして
  1999年に神戸市が整備
  高さ約80aで約80本の緑の塔が沿道を飾る

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  ベンチ支える消火器

  消防学校などが入る神戸市防災総合センター内の一角に風変わりなベンチが
  4本の足が消火器で作られている
  製作者は消防局OBの方
  センター敷地内に座る場所がなかったため日曜大工の腕を生かし
  使用済み消火器と不要になったすのこで作られた
  センター内には、はしご車のはしごの形をした金属製チラシ入れや
  塩ビパイプを利用した長靴立てなど
  「コレクション」がずらり
  訪れた人の目も楽しませている
                      2011/06/09 神戸新聞より

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  土足制

  学校生活はずっと土足だったから、それが当たり前で
  女房は上履きだったと聞いて、えぇ田舎やなぁ〜と笑った記憶がありましたが
  全国的には土足制が少数派のようです
  2011/2/19の神戸新聞にこんな記事がありました

  教室内も靴のまま入る「土足制」が一般的な神戸市内の小中学校に“異変”が起きている。
  統廃合による校舎建て替えなどをきっかけに、室内用の靴に履き替える「上靴制」にする学校が相次いで登場。
  戦前から外国人の多い神戸ならではの“靴文化”が伝統として残ったとみられ
  「履き替えると子どもが外に出るのが面倒になる」と敬遠されてきたが
  掃除がしやすいなどのメリットがにわかに注目され始めている。
  2002年に同市教育委員会が調べたところ
  神戸市立小中学校の全255校のうち、96%にあたる245校が「土足制」を採用。
  これほど多い地域は全国的にも珍しいといい
  同市教委指導課は「外国人が多く暮らす居留地など
  ハイカラな町の雰囲気が影響したのでは」と推測する。
  ただ、状況はここ数年で変わりつつある。
  阪神・淡路大震災による校舎の傷みや、少子化に伴う統廃合で
  校舎の建て替えが増加。新校舎完成に合わせ
  校舎内では靴を履き替える「上靴制」に切り替えるケースが相次いでいる。
  神戸伝統の土足制か、上靴制への転換か‐。
  同市教委は「各学校の自由裁量。よく考えて選んでほしい」と話している。

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  鉄人28号が散歩

  観光スポットとしてすっかり定着した長田区若松公園の鉄人28号
  北側の公園には楕円形のゴムマットが二つ
  同じような形の砂場一つがモニュメントの後方に広がっている
  これは・・・・・
  鉄人28号の足跡です
  ホップ、ステプ、ジャンプして広場に降り立ったという設定です
  と、神戸市の西部建設事務所の担当者が語る
  足の裏の大きさは、長さ4.9m、幅3.1m。
  よく見ると、確かに、左、右、左と交互に地面を踏んでいる
  ズシーン、ズシーンと夜中に遊具を揺らしている
  鉄人28号の姿を想像してみてください^^

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  中央幅広管理路

  全長3911m。世界最長のつり橋、明石海峡大橋
  本州と四国を結ぶ大動脈の下にもう一つの道がある
  「中央幅広管理路」と呼ばれる保守点検作業用の通路
  海面からの高さは約40〜80m。
  格子状の金網の上を車両が走る。足元には海
  絶景だが、少々怖い
  潮風にさらされる大橋は、さび防止が最重要課題
  塗り替えや機械の点検作業などが昼夜を問わず続けられている
  寿命200年を目指す巨大橋を支える、か細くも頼もしい道
  まさに”縁の下の力持ち”

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  床で踊る金具

  電車内の床に落ちた金具が突然動き出す
  そんな”怪現象”が神戸新交通六甲ライナーやポートライナーで見られる
  実は、車両のモーターを動かす電流から磁気が漏れているのが原因
  人体への影響はないと言うが
  クレジットカードや携帯電話などを落とすと不具合が起きる恐れもあり
  同社は磁気対策を施した新車両への入れ替えを進めている
  車両下部にあるモーターに強い電流が流れた際、磁気が発生し
  電線から床面に漏れるのが原因
  神戸新交通のように小型で全車両にモーターが付いている場合起こりやすい
  2006年から磁気の漏出を基準内に抑えた新型車両を順次導入
  19編成のうち17編成を入れ替えた

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  へこたれん坂

  高台に戸建て住宅やマンションが立ち並ぶ湊川町
  急な坂道が迷路のように入り組む
  その一角にあぜんとするほど長いスロープ付きの階段がある
  上り口に石板が埋め込まれ「へこたれん坂」とある
  長さ約40b、高低差約18b
  もともとは階段道だったが阪神・淡路大震災で
  土砂や古い家屋が道をふさいで通れなくなり
  1998年現在の形に改修された
  震災にももへこたれない、が名の由来とか

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  おらが山

  海山へ行くと言えば
  ご存知の通り、山を削ってポートアイランドを造成したことです
  その削られた山の一つが高倉山
  鉢伏山から続く高倉山が海を埋め立てる土砂を
  採取するために削られた
  全山を切り取る計画だったが
  低くなった山から風が吹きおろし、まちの気象が変化した
  市民が反対し高さ291mだった高倉山は
  200mになったところで守られた
  新しい山はいつしか「おらが山」と呼ばれるようになった

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  異人館警察

  装飾が施された風格ある柱
  その奥には幾何学模様が美しいステンドグラス
  思わず優雅な気分に浸ってしまう
  実はここは垂水署のロビー「だった」
  以前国道2号線沿いにあった旧庁舎で使われていたもの
  1916年建設の旧庁舎はドイツ人邸宅やホテルなどを経て
  48年に警察署に
  異人館警察と親しまれていたが
  86年の新庁舎完成に伴い篠山市内の
  「お菓子の里丹波」に移築
  部材の一部が新庁舎に残された

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  巨大なカメは都市像

  板宿本通商店街を北に通り抜け妙法寺川に向かうと現れる巨大なカメ
  子供一人が背中に寝そべることが出来るくらい大きい
  近づいて見ると上にいろんなものが乗っている
  背中に描かれているのは「都市」だった
  説明をみると北アフリカの古代都市でローマとの戦争に敗れたが再興した
  「カルタゴ」を描いた像
  彫刻家天野裕夫さんの作品で1997年に阪神淡路大震災の復興事業が
  一区切りついた節目に設けられた

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  シャークナゲット

  須磨海浜水族園の売店「ドルフィンショップ」では
  ちょっと怖い食べ物が人気を呼んでいる
  その名は「シャークナゲット」
  ヨシキリザメの身を小麦粉などでまぶして揚げたものだ
  恐る恐る口に運ぶと・・・
  意外においしい。鶏のささ身といったところか
  「あっさりした白身魚の感覚。多い日で50個も売れる人気商品です」とか
  ちなみにコラーゲンが豊富で、2個食べると1日の必要量をカバーできる
  女性には二重においしい食べ物かも

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  神戸っ子のおしゃれ

  おしゃれなイメージが定着している神戸
  2000−20004年の都道府県庁所在地での一人当たりの
  消費額を総務省の家計調査年報を基に調べた
  「消費の県民性を探る」は意外な結果を示す
  月平均の一人当たりの支出額は
  化粧クリーム(253円)、化粧水(294円)、ファンデーション(157円)、口紅(72円)ともに40位以下
  1位の県と比べるといずれも半額以下
  神戸独特のこだわりを示すデータもある
  カット代(646円)は全国5位の半面、パーマ代(698円)は32位
  婦人靴の支出額(898円)は全国トップの一方、サンダル(61円)は最下位
  派手に飾ることを避けながらきちんとした身だしなみを心がける女性像が浮かぶ
  喫茶代(707円)が全国3位、飲酒代(1032円)が最下位というデータも
  神戸っ子の「品行方正」さを示しているのでは・・・

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  神戸空港のエスカレーター

  空港のターミナルビル
  1階から2階を結ぶエスカレーターの上りと下りの幅が違います
  搭乗客が1階玄関から2階出発ロビーへ向かい
  到着客も大半が1階到着ロビーから2階のポートライナー連絡口へ向かうため
  下りより上りのエスカレーターに乗る人が多いため
  下りのエスカレーターは少し幅が狭い
  混雑緩和に役たち、手荷物をステップに置く余裕もある
  コンパクトな構造が売り物のターミナルビル
  限られたスペースを活用するための知恵です

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  港名記した灯台

  神戸港の入り口に力強い筆文字で「神戸港」と書かれた灯台がある
  神戸海上保安部によると「港名を記した灯台は日本でここだけ」
  灯台はポートアイランドと和田岬の間に延びる第一防波堤の東端にある
  2b四方の板3枚に1字ずつ書かれ船上からはっきり見える
  神戸港振興協会の資料では1964年から2年続きで台風による高潮などの
  被害を受けたため安全を祈願し長浜洸さんという女性書道家が筆を執った
  1967年開港100年の記念事業として市などが灯台に掲げた
  灯台に字を書いたり看板を掲げたりといった行為は法で禁じられており
  照明を邪魔しないなど国が認めた場合だけ許可される
  「文字を掲げてから昔のような大きな台風被害はない」と同協会

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  変わらない感知式信号

  垂水区平磯1。R2に合流する交差点の感知式信号に変わった張り紙がある
  「停止線で正しく止まらないと信号が変わりません」
  市や垂水署によると信号は1980年に設置。
  南方の下水処理場へつなぐ道路の信号として使われているが
  車が停止線よりも手前で止まり何分も感知せずに信号が変わらないことが
  何度かあったため張り紙をつけたという
  停止線を守ると1〜2分で信号は青に・・・
  「ここはきちんと止まらないと一生変わらない可能性もある」と、警察の話でした

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 国道174号

 国道174号線は神戸税関の南(神戸港)から税関前交差点(国道2号線分岐点)へ至る
 総延長187.1mの日本一短い国道です。
 なぜこんな短い国道が存在するのか?という疑問がわきますが
 それは神戸港という存在が関係してきます。
 神戸港は日本にとって重要な港湾であり
 その中でも特に重要な港湾 『特定重要港湾』 のなかの一つに選ばれています。
 この道はそんな重要港(空港を含む)と主要国道を結ぶ役割を果たしているのです。
 この種の道路は『港国道』と呼ばれています。
 主要国道が港に近ければ近いほど港国道の距離は短くなるということになります。
 また、なぜこれほどまでに短くなったのかという疑問
  …国道174号線はかつて三ノ宮駅の南まで延びていました。
 かつて国道2号は三ノ宮駅南を通っていたのですが
 国道2号がルート変更で海側に変わったため
 港(神戸港)から国道(国道2号)へ至る港国道の距離が縮まったのでした。

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   カラオケ
   神戸で生まれ世界的な娯楽、風俗として広まった「カラオケ」。
   その原型となった機械の発明者が井上大祐さん。
   バンドマンを経て神戸のクラブでオルガンの弾き語りを始めた。
   客の歌がキーやテンポをはずしても巧みに伴奏を合わせ人気に。
   常連客の一人に伴奏を吹き込んだテープを渡し感謝されたのを機に
   カラオケを発案。カーステレオとマイクなどを組み合わせて改造し
   カラオケの原型となる「8ジューク」を開発。
   1971年、神戸のスナックに10台を置いたところ人気を集め数年後に
   全国、さらに海外でもブームに。

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   山側・海側
   方角を表す際、南側のことを海側、北側のことを山側と表現すること。
   神戸市街地の地形を地上から見ると、比較的近い距離で、南に海、北に山がある。
   特に、北側に山があることは神戸市中心部にいればどこでも確認できるため
   北側=山側と認識する人は多い。
   そのため、このように言う人が神戸(神戸以外においても)では多いのだろう。
   ちなみに、東と西を表す言葉はない

   大阪の人に言っても時として「?」となりますが・・
   最近の子は使わないのかなと思いきや我が家の子供もしっかり使ってます

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  ウラオモテ

  順番を決めたり勝ち負けを決めるのは「ジャンケン」では仲間を分けるときに
  どんな方法があるでしょうか?
  それはー「ウラオモテ」神戸を中心とした地域で使われているものです
  「ウラオモテ」とはどんなことをするかと言えば
  まず、「ウラオモテ」とは手のひらの「裏表」のことです。
  じゃんけんの時のようにみなが集まってみんなが片手を出して
  「ウーラーオーモーテ」のように言いながら手のひらを上に向けたり
  下に向けたり、ヒラヒラさせます。
  最後に自分の考える方、手のひらか、手の甲かを上にします。
  その結果「手のひら組」と「手の甲」組とに分かれることができます。
  甲南大の都築教授グループが調査したところ
  東は東灘区まで、西は明石市にも少し入り込んでいました。
  「ウラオモテ」以外にも「ウララオモテ」「ウラランテ」等のパターンもあるようで
  うちの次女は「ウララオモテ」派でした。
  関西では神戸のみの「ウラオモテ」全国では仙台・横浜・名古屋・広島・九州などの
  地方都市にもあるようですが
  東京と大阪にないのが非常に興味深いですね

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  道路標識ー1

  総合運動公園沿いにどこかで見たような色合いの看板。
  でも、白抜きの文字はなぜか「コンビニエンスストア」とだけ。
  公園管理事務所によるとこの看板、官民の「知恵の結晶」とか。
  約250m先に大手コンビニチェーンの総合運動公園店がオープン。
  ドライバーにアピールしようとしたが、市の施設は原則企業広告禁止。
  町でよく見かけるマークは「広告」とされたが、折衝の結果、色だけは認められたという。
  店の名前はないものの、売上は好調とか。
  体を表すのは名より色だったりして、という話でした。

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  五十段坂

  びっくりするほど急な階段があるとか。
  兵庫区の石井川沿いを上流に歩いて行くと絶壁のような階段が。
  通称「五十段坂」。地元住民の散歩コースや小学生の待ち合わせ場所として親しまれている。
  距離は約30mで、高さは約15m。角度は約40度もある。
  造山活動でできたがけに、明治末期、階段が造られたという。
  上ると、運動不足から息が上がる。
  頂上で振り返れば、眼下に兵庫の街並みが広がる。
  「でもホンマは50段ちゃうねんで」。
  軽快な足取りで上がってきた小学生が教えてくれた。
  数えてみると、51段だったとか。

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  擬人化

  神戸人は食べ物を擬人化する。関西人と言ってもいいかもしれない。
  「お豆さん」「おいなりさん」「おあげさん」「お芋さん」「おかゆさん」。
  頭に「お」や末尾に「さん」を付けるのは、もともと御所に出入りしていた伏見商人が、秀吉の命令で
  大阪の船場に移り住んだ際、御所言葉をそのまま伝えた、とも言われている。
  ところが、神戸人は、そうした船場言葉を使いながらも、独自の表現をする。それは「ちゃん」付けだ。
  「アメちゃん、食べる?」。この、「アメちゃん」関東人には全く理解できない。
  「アメちゃん」とは口に入れる飴。むくつけき大の男でも「アメちゃん」である。
  その根拠はよくわからない。「お」や「さん」を付ける風習からすると、「おアメさん」でもいいはず。
  しかし、「アメちゃん」でないといけない。
  また、ケーキ、チョコ、クッキーなどは「お」や「さん」をつけない。もちろん「ちゃん」も。
  この「アメちゃん」は大阪でも通用します。どちらが先か、それはわかりません。

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  三宮競馬場

  明治の初めのころ、三宮で外国人やおおぜいの人々がレースを楽しみ、ずいぶんにぎわっていた。
  場所は生田神社の東側、生田新道から東門街にかけて、夜にはネオン輝くこの辺り。
  5千坪の敷地に、長さ1200ヤードの美しく整った競馬場で、明治2年の写真を見ると、生田の森と
  生田川との間の人家のない原っぱに造られていた。
  生田の森の競馬場は、1869年秋にオープン。春秋の競馬会は、2,3日かけて開かれ、賞金の
  かかった様々な名称のレースが、多い時には日に18レースも開かれた。
  「会場には花が飾られ、旗がひるがえり、屋台が出て、バンド演奏もあるし、日本人専用の観覧席
  もあって、外国人が驚くほどの市民の群集でにぎわった」。
  賞金レースで行われ、高額は「日本選手権杯」、レース名は「神戸杯」「中国杯」「領事杯」のほか
  「ミカド杯」とか、負け馬の敗者復活戦の「慰めカップ」とか「別れの盃」など、いかにも往時が偲ばれて
  面白い。騎手は外国人が主だったよう。
  競走馬は日本ポニーか中国ポニーだったが、中国ポニーが強いので、そのうち、賞金目当てに争って
  輸入し始めたため、運営にあたっていた兵庫・大阪競馬倶楽部は日本ポニーの援助策を講じたりしている。
  また、人々は賭けレースで儲けに走るようになって、本来の健全娯楽・社交場の機能から遠ざかっていった。
  1875年7月に神戸に鉄道が開通したころから、衰退し始め、約8年間で競馬場は消えてしまった。
  察するに、ポニーに代わる人力車の普及や開港後の急激な人口増と商工業の集中による用地需要が
  背景にあったと考えられる。
  そして、この頃からKR&ACという外国人のスポーツ団体の活発な市民スポーツ活動が展開される
  こととなる。

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  兵庫の大仏

  兵庫の大仏さん。それはJR兵庫駅から少し南へ下がった、兵庫津の道に面した能福寺にある。
  鎌倉の大仏さんより5mも大きい、18mの兵庫の大仏さんは、案外、神戸lっ子でもご存知ない。
  立派な日本の3大仏の一つなのに残念。
  正式には大日如来とも言われる毘櫨盧舎那仏だ。
  1891年に開眼したが、作られたきっかけは、仏教とキリスト教との宗教対立だった。
  明治の開港で急速に広まったキリスト教に、地元の仏教徒らが信者を奪われると感じたのだ。
  そこで寺社が多い兵庫の仏教や神道の関係者らが宗派を越えて団結し、キリスト教が進めていた
  社会活動に対抗して、兵庫明道館の創設・救貧などの社会事業を展開した。その仏教徒らがシンボル
  としたのが、実は兵庫の大仏さんだった。
  当時は奈良の大仏、鎌倉の大仏と並び称され、大変なにぎわいを見せていた。
  ところが、大戦中には、金属回収でこの大仏さんまで供出された。ただ、胎内にあったミニチュアの
  胎内仏は残され、再建の日がくるまで大事に祭られた。
  その再建は大仏建立100年目の1991年5月9日、盛大に執り行われた。
  戦前の大仏さんは下から見上げるとほっそりとして、やや頭でっかちに見えたが、再建された大仏さんは
  ふっくらとした柔和な表情を見せている。
  これは神戸市の建築基準に合わせて震度7にも耐えられるように、重心をかなり下の方においた事による。
  再建された大仏さんは座高11m、蓮台3m、台座4m、重さ約60トン。

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   兵庫運河

   兵庫津は和田岬沖が突出していて風波・潮流の影響を受ける難所であったため、江戸期から
   港の改修の必要に迫られていたが、明治7年兵庫の神田兵右衛門、県令・神田孝平らによって
   官民共同で、新川運河が計画され、明治9年竣工した。
   その後、地元の八尾善四郎、池本文太郎らは、抜本策としての船舶航行の安全と兵庫の発展
   をねらって兵庫運河の開削を計画。工事費は、船舶の運航料と沿岸の土地開発による開発利益
   で償却しようとするもので、まさに民間事業者の資金・ノウハウによる民活事業だった。
   地主の反対にあい地元補償などをめぐる紆余曲折があったが、工事はやっと明治29年に始まり
   32年12月に竣工・開通した。開削によって出た土砂で作られた刈藻島も、小型船にとって安全で
   便利な港となった。
   運河の開削は、計画段階から建設・管理・運営が民間主導で行われ、八尾善四郎の資力と
   努力に負うところが大であった。八尾は、淡路・岩屋村の生まれ、5歳で兵庫の旧家八尾家の
   養子となって後、半生を兵庫運河のために捧げた。この事業のおかげで、沿岸一帯は商工業
   地区として発展していった。

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   フラワーロード

   かつて暴れ川だった旧生田川を付け替えた加納宗七。
   今では都心軸となっている新神戸駅から三宮駅、市役所前のフラワーロードへと続く南北の
   道路。神戸まつりパレードが行われる神戸の顔のストリートだが、ここはもともと布引の滝から
   神戸港へと生田川が流れていて、大雨で氾濫を繰り返していた。開港直後、出来あがったば
   かりの居留地も洪水で洗われた。明治4年、現在の生田川に付け替えようということになったが
   加納は自らの資力と集めた労力で旧生田川を短期間で埋め立て整地するとともに、幅広い道
   路に変え、周辺の開発をした。これが今の三宮・中心街のもととなっている。三井の資金援助を
   受けながら民活での都市開発だった。
   加納は、紀州・和歌山の生まれ。尊王派で、坂本竜馬暗殺の仇敵とされた三浦休次郎らを
   紀州藩士陸奥宗光らとともに京都伏見の天満屋に襲い、新撰組と渡り合って「お尋ね者」となり
   神戸に見を隠していたが、陸奥や伊藤博文の計らいもあったりして、材木商、回漕業などでも
   事業を拡大していた。
   加納宗七の姓は、加納町として町名で残っている。
    
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   三宮と三ノ宮

   JRの『三ノ宮駅』と阪神、阪急、市バス、地下鉄、ポートライナーの『三宮駅』。
   どちらも読み方は「さんのみや」。JRには『ノ』が入っているが、他社線には「ノ』がない。
   普通駅名にはその土地の町名などがつけられる。歴史的には、もちろんJRの『三ノ宮』が古い。
   明治7年の開設。当時、駅名を付けるのに、三ノ宮という登記上の地名を採用したという説と
   駅名を読みやすくするため『ノ』を入れた、という二つの説がある。
   三ノ宮と同時に西ノ宮も開設されたが、ここでも「ノ」が入っている。
   JRではとくに、「ノ」を入れることに統一してはいない。戦後、住居表示を基に『ノ』をつけるように
   なったが、1949年鉄道省から国鉄に変わってからも、今さら変更するのも面倒なのか『ノ』を
   入れたままになっている。
   これに対して他社線では、地名が三宮に表示されていることや、JRが『三ノ宮』となっていること
   から、区別して『三宮』とした。『西宮』『西宮北口』にも『ノ』が入っていないが、よみかたは
   「にしのみや」「にしのみやきたぐち」。というわけで、地名から駅名を取っている。
   ところが住居表示で『ノ』が取れたのに、読み方は『ノ』を入れる。
   英文では『SANNOMIYA』となっている。
   あまり気にする人はいないかもしれませんが・・・。

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   神戸とこうべ

   神戸がいつの時代から「こうべ」と呼ばれるようになったのか、その呼び名の「起源」は・・・。
   神戸の名は生田神社の神戸(かんべ)に由来した地名とされている。古代、神社には「カネ、ヒト
   モノ」を出して神社を支えた封戸(神の戸)があって、生田神社には44戸の封戸が与えられていた。
   集落は神戸(かんべ)といっていた。この神戸(かんべ、じんこ)と呼ばれた集落は明石にも揖保郡
   にもあって、全国各地にも残っているが、この時代から神戸のことを「こうべ」と呼んでいたわけでは
   ない。時代の移り変わりで見ると、この地は
   古代      神戸(かんべ) 生田神社の封戸
   平安時代   神戸(かんべ)郷
   室町時代   紺部(こんべ、こうべ?)村・・太平記では、福原庄(村)紺部村
            天正8年花熊城攻撃の城絵図・・紺部村、二つ茶屋村、走水村
   江戸初期   上部(こうべ)村 正保の絵図・・上部(こうべ)村
            1732年・・花隈落城記に、上部村百姓
   江戸末期   神戸(こうべ)村
   明治元年   神戸(こうべ)町誕生・・人口6千人、兵庫町2万人
   明治4年   神戸(こうべ)町と兵庫町を併せ人口3万7千人
   明治12年  神戸(こうべ)区誕生神戸町、兵庫町、坂本村が合併し,神戸区となる。5万8千人。
   明治22年  神戸(こうべ)市誕生 荒田村、葺合村を編入し、市制施行。
            面積21キロメートル。人口13万5千人。
   神戸(かんべ)郷の地域が上部(こうべ)村となって、その「こうべ」が神戸(こうべ)村となり、町、区
   市となった。「神戸っ子」のルーツはさしずめ、「神の戸の子?」と言えるかも。
   市章のデザインは「カウベ」の「カ」が扇型に変形されたものといわれるが、これは明治の旧カナ使い
   によるもので、神戸が「かうべ」と呼ばれたわけではない。

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   由緒ある町名

   『雪御所町』は、兵庫区はJR神戸駅より市バスで石井橋で下車した辺り。この町名は平安時代
   の末、わずか半年間だったが、ここに平清盛の別荘『雪見御所』があったことから、大正3年、こ
   れに因んで付けられたもの。
   石井川沿いの山あいに千鳥ヶ滝がある。この付近は『千鳥町』という。滝の水が岩に砕け散って
   まるで千鳥が飛ぶようだとか、西行法師の歌にちなんだものとか、諸説がある。
   中央区『東雲(しののめ)通』は布引の滝を訪れた平安時代の歌人、藤原家隆の歌(新勅撰和歌
   集)からとった、という説がある。布引の滝といえば、当然『布引町』がある。上流の布引の滝に因
   んで、明治6年に付けられた。
   『日暮通』もまた、鎌倉時代、比叡山延暦寺の座主、澄覚法親王が布引の滝を詠んだ歌に因んで
   付けられた。
   細かい砂を真砂という。万葉の時代、この辺りは美しい砂浜が広がっていたことから、歌にも詠まれ
   ていたので、『真砂通』と明治末につけられた。『八雲通』は、北の『東雲通』と南にある『日暮通』の
   中村八幡神社の”八”からとったもの。
   須磨区には、古今和歌集、源氏物語に登場する場面が多いだけに、由緒ある町名が多い。『青葉
   町』は須磨寺に残る敦盛ゆかりの”青葉の笛”、『桜木町』は”若木の桜”にちなんだもの。『衣掛町』
   『月見山町』『松風町』『村雨町』は、いずれも平安時代の歌人、在原業平が須磨に流されていた時
   に、潮くみの姉妹を愛したロマンスにちなんでつけられた。
   きれいな地名・町名には、それにふさわしいまちづくりが求められるのかもしれない。
   町がきれいになれば、きれいな地名・町名も引き立つに違いない。

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   神戸はじめて物語ー5

   バウムクーヘン  ユーハイム
  
   幾層にも生地が重なり、しっとりした味わいのバウムクーヘン。”年輪”になっている部分は
   焼く時につく焦げ目で、これも美味しさの秘密。
   バウムクーヘンは、約400年前からあるドイツ菓子で、日本に最初に紹介したのが、ユーハイ
   ムの創始者、カール・ユーハイムさん。
   彼が日本の地を踏んだのは第1次世界大戦の捕虜としてだった。収容所での作品展示会に
   バウムクーヘンを出品したところ、大好評を博す。今から80年余り前のことだ。
   その後、妻エリーゼさんも来日、2人は横浜を経て大正12年、神戸へと移住し、念願の店を
   三宮に開いた。
   ハイカラな港町、神戸での一番人気はバウムクーヘンだった。
   そもそも、バウムクーヘンとは、ドイツ語で”木のお菓子”を意味し、お菓子の中でも熟練の技術
   を要求されるもの。長さ約1b、直径約10aの木製の芯棒を回しながら生地をかけ、一層ずつ
   重ね焼していく。本場ドイツでも、バウムクーヘンを上手に焼けるようになって、初めて一人前の
   マイスターと呼ばれる。
   97年12月には、その原点とも言える「ケーニヒスバウムクーヘン」が誕生した。震災のあと発見
   された古い配合帳にそった素材を使い、樫の木の円錐形の芯棒で昔ながらの方法で焼き上げて
   いく。焼き始めると、一人の職人がつきっきり。形の調整は一切しないので、ツノができて、オブジ
   ェのよう。一つひとつ微妙に形が違うところが、いかにも手作りらしい。
   
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   神戸はじめて物語ー4

   ロシア革命の戦火から逃れ、一人の白系ロシア人が日本に亡命、神戸に渡ってきた。その人
   こそ、ウイスキーボンボンを日本に伝えたマカロフ・ゴンチャロフ氏。皇帝の高級洋菓子職人だ
   った彼は、大正12年秋に北野町で手作りチョコレート店をオープン。これが、「ゴンチャロフ製
   菓」のはじまりだった。
   板チョコしかなかった時代にウイスキーボンボンのような高級チョコが登場したことは、富裕階
   層を中心として大変な評判に。とくに外国のお菓子ということもあって、神戸在住の外国人には
   とても好感を持たれていたとか・・・。いずれにせよ、ハイカラ文化の神戸の街。日本に初お目
   見えした高級菓子の売れ行きの不安などよそに、瞬く間のうちに人気を集めた。しかも、当時は
   いまと違って、チョコそのものが高級品。ウイスキーボンボンともなると、手に入れるというだけで
   ステイタスになったという。
   「当時、ウイスキーボンボンは、ちょうど上等のメロンのようなものだったのではないでしょうか。
   なかに入っている洋酒も高級品でしたしね。それでも、30年くらい前で、1日の生産量が7〜8
   万個にのぼるほどの根強い人気商品だったんです」。
   時代とともに味や製法にも改良に改良を重ねられたが、昔懐かしいボンボン特有のあのジャリッ
   とした食感は、かすかに残されている。
   
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   神戸はじめて物語ー3

   ゴーフル  神戸風月堂 
   誰もが一度は口にしたことのあるお菓子、子供からお年よりまで安心して食べられる「ゴー
   フル」は”日本の洋菓子”の代表とも言える。
   発売されるようになったのは、昭和2年のこと。1人の客がフランスの焼き菓子を店に持参し
   て、その商品化を勧めたのが、発想の原点に。それが、大正15年頃のことだというから、商
   品化に至るまでには、かなりの試行錯誤と研究が重ねられてきたはずだ。
   未開の新菓に夢を託し、そこに注がれた苦心が報われようやく店頭販売にこぎつけた。しかし
   斬新さゆえか、当時の日本人の味覚をくすぐるまでには至らず。しかも、一枚一枚手作りという
   上に、費やす日数とコストはかなりのもの。1日の生産量もわずか800枚。それでも、このとき
   すでに将来への大きな飛躍を信じて疑わなかったという。
   数多い自社の和洋菓子のなかから選定した「ゴーフル」を、なんとしても代表菓子にしたい。
   いくつもの難問を克服しながら、「ゴーフル」一辺倒に突き進む日々は長く続いた。
   やがて、作り手の強い信念と期待に背くことなく、ロングセラー商品に成長。いまもなお、神戸
   をはじめとする多くの人々に愛されつづけている。
   2枚重ねの薄くて軽いせんべい風のお菓子。フランス菓子の長所と、和菓子の長所とが見事に
   溶け合った「ゴーフル」は、和菓子作りの伝統と洋菓子作りの進取の精神から生まれた、まさに
   傑作中の傑作。
   
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   神戸はじめて物語−2

   そばめし 青森
   約40年前、先代のころ、お客さんが持ち込んだ冷ご飯を「そばと混ぜて」と注文したことが
   きっかけだそう。「当時は電子レンジなんてなかったから、常連さんたちが家から冷ごはんを
   持ってきて、鉄板の横であたためてお好み焼きやソバと一緒に食べてたんや。そのうち、お
   客さんの方から、そばと一緒に焼いてみてと言われてな」と。2代目のご主人は懐かしそうに
   話す。
   これが「早くて、安くて、おいしい」と口コミで広がっていったが、ご飯を持ち込む人だけに作
   っていた、”裏メニュー”だった。
   正式にメニューとして登場したのは、2代目が店に出るようになってから。85年頃?
   表メニューとしてデビューすると、あれよあれよという間に評判を呼び、長田の「そばめし」と
   して定着していった。
   青森の「そばめし」は、ワインやゴマ油などで煮込んだすじ肉と、通称ドロソースという秘伝
   のウスターソースで味付け。ごはんをコテでザクザク切りながら、そばと混ぜていく。
   ごはんの一粒一粒がよく炒められ、バラバラしたものが絶妙の焼き具合。

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   神戸はじめて物語−1
   
   コーヒー専門店 にしむら珈琲店
   神戸にとってコーヒーと言えば、まず最初に浮かぶのが、にしむら珈琲店。豆にこだわり
   初めて宮水を使い、自家焙煎を行った。コーヒー専門店としてのスタイルを作り上げた店で
   ある。
   1948年、オーナーの川瀬喜代子さんが、現在の中山手本店の場所で、5坪ほどの小さな
   店を開いた。豆はもちろん、道具などもまだまだ手に入りにくい時代だったが、オーナーは
   納得のできる味を追求した。
   そのこだわりのひとつが、自家焙煎。ていねいに異物を取り除き、豆をロースターに入れる。
   少しずつ色づき始めた豆は躍り、こうばしい香を放つ。
   豆の持ち味をどう生かすか、そこに個性があらわれる。
   上質な豆の゛個性”を伝えるためには、上質な水も必要。今でこそ、誰もが考えることだが
   オーナーはそこにいち早く着目する。
   当時は神戸ウォーターと言われ、水道水でもおいしいものだった。しかし、オーナーは「これ
   でベストと「いうことはありえない」と、四方八方探し回る。ようやく出会ったのが灘の酒を作る
   宮水だった。1952年、初めて宮水を使い、一杯一杯ネルドリップして点てた。それは今もま
   ったく変わらない。
   それぞれの豆が自家焙煎によって、その個性を引き出され、水と出合い、さらに味わいを深め
   る。そこで日本で初めてストレートコーヒーというメニューを登場させた。1952年のこと。

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   クール&ドライ

   神戸という街は、ハイカラでお洒落な街というイメージがあり、また時として横浜
   対比されることがありますが、その横浜と言えば、サッカーの横浜フリューゲルス
   がなくなる時に市民が立ち上がり、市民の力でクラブを立ち上げました。
   また、横浜ベイスターズが優勝した時も大魔神神社ができたりしました。
   振り返って、神戸はというと、サッカーのヴィッセル神戸の試合に人は入らなくて
   Jリーグで最低らしい。弱いせいもありますが・・・・
   野球のオリックスブルーウエーブもやっぱり観客動員数は少ない。強いのに・・・
   サッカーは前身が川鉄水島サッカー部が移転してきたし、野球は阪急ブレーブス
   が見売りして、こちらにきたせいもあるかも、しれませんが・・・
   しかし、神戸っ子はあまり一つのコトに熱中しないところがあります。
   全市をあげて頑張ると言うこともない。
   あっさりしているというかクールというべきか。いい意味での「ムラ」意識がない。
   神戸まつりにしても、「参加」する人と「観る」人がくっきり分かれている。

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   神戸空港!?

   神戸港沖にいま神戸空港の建設が始まっています。(2006年2月完成)
   関西に新国際空港を、という話がでたときに、最有力候補だったのが神戸です。
   でも、港町神戸は空をライバルと考えたのか、「NO」の返事。その結果
   泉州沖に今の空港ができました。
   ところが、年月が経ち今度は、空港を必要と考え出したのです。
   しかし、国は「NO」と言われた過去があるだけに、建設になかなか「GO」サインを
   だしませんでした。色々と、人脈や裏の世界の動きもあって、やっと「OK」が。
   震災で大変な町に、空港を作る余裕はない、という人もいますが、大阪や京都と
   違い、神戸は街自体にそれほど活力がないと、思うんです。
   京都なら、ワコール、京セラ、堀場製作所等、大阪はそれこそ色々の企業が・・・
   あって、町を元気づけている。
   それにひきかえ神戸には、そういう企業が見当たらない。
   だから、いろいろなプロジェクトをやって、町に活力を注入しているように、私は
   思います。

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   神戸弁って
   
   神戸弁の代名詞と言えば、「兵庫・新開地のなんどいや」と言われますが、下町育ち
   の私でも、そんな言葉を使った記憶がありません。
   ただ、どこがどうとは言えませんが、神戸弁はあまりよい響きの言葉ではない様に
   思います。
   私のなかで、神戸弁というと、「知っとう」「見とう」「やっとう」という風な使い方が
   特徴的と思います。語尾に「う」をつけるのです。
   大阪弁や京都弁と違い、雑種・雑居の町、神戸は神戸弁を画一的に定義するのは
   むつかしいようです。

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   パンとコーヒー

   神戸はパンとコーヒが似合う街と言われますが、全国のパンメーカーは140社くらい
   あるそうですが、その半数ほどが神戸のメーカーとか。
   パンの年間購入量は、全国平均が56700円に対して、神戸は約80000円とか。
   これは、日本一です。神戸人の7割が毎日パンを口にしているという話もあるとか・・・。
   明治の開港以来、欧米の外国人らが居留地に移り住み、まちの発展とともに長く
   暮らしていたです。彼らが日常口にしたのがパン。
   神戸のパンは、山食といわれるイギリスパン、四角いブルマンと呼ばれるアメリカパン
   棒状のフランスパン、ドイツパン、ロシアパンなどその種類も多い。
   そうしたパンメーカーは、いわゆる「まちのパン屋さん」という感じのリテールベーカリー。
   神戸では、大手のパンメーカーもなかなかシェアを広げられないようです。

   一方のコーヒー。神戸の年間購入量は9144円で全国14位と以外と低い。
   ただ、コーヒーとのかかわりは深い。コーヒーを扱った日本初の喫茶店が神戸で誕生。
   コーヒー豆を挽き、店で飲ませたのが、神戸元町の茶屋、芳香堂です。
   因みに、缶コーヒーを開発生産したのが、UCC上島珈琲です。

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   北野坂、ハンター坂。。。

   「北野坂」。観光客でにぎわう北野の南北メインストリートの愛称。
   神戸っ子の私達にも、すっかりなじんでいますが、20年ほど前までは
   そんな名前はありませんでした。
   昭和52年NHK朝ドラ「風見鶏」がきっかけで異人館ブームが起き、賑わい始めましたが
   今の「北野坂」は当時は、ヒルトン通りが一般的でした。
   坂の突き当たりにあったラブホテルの名前からきていました。
   新聞や雑誌も使用していました。
   で、道路に愛称をと、なり「北野坂」と名付けられました。
   「ハンター坂」「不動坂」もこの時期につけられました。
   これ以降、地域総称や公共施設のネーミングに市民公募方式が一般化しました。

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   カタカナの街

   舞子海岸といえば、有名ですが、明石海峡大橋の完成と平行して、再整備され
   「アジュール舞子」と名をかえ、東隣に「マリンピア神戸」ができましたが、JRの
   舞子駅からは公園の松も海も見えなくなりました。
   隣の明石市がすぐ西隣に造ったベイエリアの名前が「大蔵海岸」としたのと対照的です。
   それにつけても、カタカナの多い町です。
   フルーツフラワーパーク、ワイン城、ポートアイランド、フラワーロード
   ポルトバザー、レバンテ、シーパル、プレンティ、セリオ、パティオ などなど
   あまりむやみに「カタカナ」を多用すると、ただの「ヨコ文字かぶれ」になってしまう。

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                                          (参考文献)                                        
                                                               神戸開港百年
                                                               神戸の神社
                                                               神戸雑学100選
                                                               北神戸歴史の道を歩く
                                                               地名でたどる小さな歴史
                                                               神戸まちかど散歩
                                                               神戸ゆかりの50人

                                                 神戸の史蹟
                                                               おいしい神戸たべあるき

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