能福寺

桓武天皇の勅命により中国に留学していた伝教大師最澄が帰途、兵庫和田岬に上陸し
延暦24年(805年)に歓待した庶民によって建てられた堂宇に大師自ら刻んだ薬師如来像を安置し
能福護国密寺と称したのが当寺の開創と伝えられ
伝教大師による我が国最初の教化霊場とされている。

治承4年(1180年)に平清盛が福原遷都のとき、平家一門により七堂伽藍が完成し
隆盛したが、平家滅亡後、暦応4年(1341年)に兵火により全焼したといわれている。
その後、慶長4年(1599年)に長盛法印によって能福寺は再建されたと伝えられている。

この寺の初代住職の円実法眼は、平清盛が亡くなったとき、遺言によって清盛の遺骨を
首にかけて京都から兵庫の地に持ってきたといわれます。

この他境内には、わが国の新聞の父と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が英文で
彫りつけた寺の由来碑(わが国最初の英文碑)や慶応4年(1868年)に起こった
神戸事件のため切腹した備前藩士滝善三郎の碑、また
重要文化財の木造十一面観音像があります。

初代の大仏は今時大戦中の昭和19年(1944年)5月に解体、金属回収供出され
また、翌年3月には神戸大空襲により伽藍は全焼したといわれている。

現在の「兵庫大仏」はニ代目になる。

この「兵庫大仏」は多数の檀徒市民や企業の協賛により47年ぶりに再建されたもので
平成3年5月の開眼法要には比叡山天台座主を導師として
奈良東大寺管長、鎌倉大仏貫主臨席の許で盛大に挙行されたといわれている。

大仏の高さは11m、台座の高さは7m、重さ約60トンで総工費は約5億円を要したという。



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