花熊城址

花熊城は永禄11年あるいは天正2年織田信長の命によって荒木攝津守村重が1年で
築いたと言われている。信長が尾張から起って国家統一の志をもって京都に入り中国をも
平定する足がかりとするためである。城の地点は神戸の海にのぞんで突き出た台地で
まさに「はな隈」で、海陸の要害地を占めていた。
城の規模は岡山の池田家蔵の図面によると、本丸、ニノ丸、三の丸があり、天守をそなえ
ヤグラの設けがあり、本丸の周囲と二の丸、三の丸を合せた周囲に堀があり、近世城郭の
形態を完備して威容を示していた。花隈村3ヶ丁を郭内に取り入れてある事は注意される。
これを現在の地形にあてると、東は県庁の西の通り、西は下山手6,7丁目のあいだ、北は
ほぼ旧山手市電通りに近く、南は北長狭通りの高架線までが城域で、現在の花隈町の範囲
であったと思われる。
なお、その図面によると、南側の城壁の石垣の高さは7間(13m)とあり、北は切岸4間(7m)
とある。城の東、今の北長狭通5丁目辺りに侍町が2ヶ所、足軽町が3ヶ所あり、その間は断崖を
つくって長薮といった。城の西に花隈の町家があり、城域は東西およそ200m、南北100mとみ
られる。
荒木村重は、その後、石山本願寺の衆徒と心を合せて信長に反抗した為、信長は池田信輝らに
花熊城を攻めさせた。信輝らは一挙に攻める不利を知って、生田の森、諏訪山、金剛寺山(今の
大倉山)などの要所にトリデを構えて、ゆっくり攻めかけた。天正8年3月1日から始めて、7月2日
についに落城させたのである。
落城後、信輝はこの城の材料の一部を利用して兵庫城を築き、一部の石は大阪城を築くときに
運ばれたと伝えている。この付近の土地の字に城に関した名が多く残っている。
この城は「花熊」と書かれ、村も同様であったが後に「花隈」となった。
城郭一部の花隈公園は戦後荒廃していたが、城跡公園として整備され、地下には市営駐車場が
設けられている。

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